Ville de Vincennes

私が住んでいる街、ヴァンセンヌ市です。

   パリの郊外に位置するヴァンセンヌは、街自体は小さいが、40,000人以上の人が住んでいます。この街で有名なのは歴史に名高いヴァンセンヌ城です。この城は、尊大でいかめしいドンジョン(主塔)、壮麗な17世紀の城館とパリのサントシャペルに似せた王室礼拝堂があります。

バンセンヌ城

ヴァンセンヌ城 (Château de Vincennes)

   11世紀にカロリングの王家はサン・モールの修道院からヴァンセンヌの森を購入しました。フィリップ・オーギュスト王は、そこに小さな離宮を建て、また聖王ルイはサント・シャペル礼拝堂を付け足したました。この善良な王は森の動物に手を出す事を禁じ、彼は森の散歩の際に動物たちと出会うのをなによりも好んだからです。聖ルイの像が城の入口近くにあります。
   1652年、マザランはヴァンセンヌの司令官に任命されるとル・ヴォーに命じて左右対称的な(古典様式の城館)2つの建物、王の館と王妃の館を建てさせました。工事が終わり、翌年の1660年に、新婚の22歳のルイ14世はこの王の館でハネムーンを過ごしました。また、王妃の館 (Pavillon de la Reine) は、ルイ14世の母君アンヌ・ドートリシュと王弟殿下が住んでいたこともあります。1661年にマザランが王の館 (Pavillon du Roi) で亡くなり、彼は王妃の館に彼専用の居室ができるのを待っていたところでした。王として、この館に最後に住んだのはルイ・フィリップの末子モンパンシェ候で、彼は1840年から48年までセーヌ砲兵長官の任にあたっていました。現在、王妃の館の一階は記章博物館になっています。 (Musée de l'Insigne) 

お城の堀 主塔 王妃の館

 お城の周囲を囲っている堀 (Fossé)        主塔 (le Donjon)       王妃の館 (Pavillon de la Reine)

   ドンジョン(主塔)は16世紀初頭から1784年まで国事犯の投獄なり、リーグ(旧教同盟)派、ジャンセニスト、フロンドの乱の首謀者、自由思想家、大貴族、啓蒙主義、哲学者たちが次々と収監されました。王の封印状による逮捕者がほとんどのバスティーユにたいし、ここに投獄される事は、不名誉さはなく囚人たちの中には、大コンデ公、コンティ公、レス枢機卿、ルイ14世の財務大臣フーケ(ダルタニャンの監視の下に)、ローザン公爵、王の封印状に対する告発をここで行ったミラボーといった著名の人たちです。(2002年12月 修復工事中)

   1738年、このヴァンセンヌ城は変なことから磁器工場となってしまい、またナポレオン一世時代にはお城は強大な武器庫に変えられました。大砲の列が据え置かれるために、それぞれの塔は城壁の高さすれすれまで削り取られました。その後、銃眼や石落しも取除かれ、主塔は再び国事犯の監獄となります。

内側から見た森も門 16世紀頃のヴァンセンヌ城 森の門の正面

森の門 (内側から見ると凱旋門風)    16世紀頃のヴァンセンヌ城      森の門の正面 (la Tour du Bois)

   1814年(ナポレオン、第一回目失脚の年)、当時のこの城の司令官はドーメニル将軍でした。彼はワグラムの戦いで負傷式の義足をつけていた。1830年の7月革命の際、反乱者たちは主塔に逃げ込んだシャルル十世の大臣を捕らえようとしました。相変わらず司令官の地位にあったドーメニル将軍は「城を爆破させるぞ。俺も一緒に吹っ飛ぶから、空中で会おうぜ。」と言って彼らを脅し追い散らしてしまいました。
   ルイ・フィリップ王の時代にヴァンセンヌはパリ防衛体制に組み込まれ城の傍らには分厚い地下保塁で外壁が補強された要塞が築かれた。いくつもの斜堤が造られて辺り一帯はすっかり「生き埋め」にされた。ナポレオン三世はヴィオレ・ル・デュックに命じてヴァンセンヌ城の修復を始めさせた。この作業には、一世紀もかかてやっと完了しました。

   1944年8月24日、ドイツ軍は26名のレジスタンス運動家をここで銃殺し、3個の地雷を爆発させました。そのため城壁と王の館は損傷を受け、また王妃の館は火事になってしまいました。王の中庭は、17世紀風の高貴な様相を新たに取戻すために、王と王妃の館の修復が行われ、主塔を巡る大堀が掘起こされ、19世紀の地下保塁が取除かれたからであります。こうして修復も終わり、この城は再び偉大な王邸として現在に至っています。

森の塔とアンギャン公爵記念柱 (la Tour du Bois et la Colonne du duc d'Enghien)
   森の塔はル・ヴォーによって上部を削られ、正門風に作り替えられた(内側から見ると凱旋門風になっている)この塔の両側に古典様式の優雅なアーケードがゆったりと広がっている。堀を越える橋の右手、王妃の塔の側に円柱が立っていて、コンデ家のプリンス、アンギャン公爵が、ナポレオンに対する陰謀を企てたかどで彼はドイツ軍に捕らえられ、1804年3月20日にヴァンセンヌに移送された後、軍法会議メンバーの7人の大佐の前に連行され、一時間後に、この場で処刑された事を示す碑が立っています。

王室礼拝堂 アンギャン公爵記念柱 市役所 植物園の入口

      王室礼拝堂 (Chappele Royale)      アンギャン公爵記念柱          市役所 (Hôtel de Ville)   植物園の入口 (Parc Floral de Paris)

王室礼拝堂 (Chappelle Royale)
   シャルル五世は聖王ルイの礼拝堂を取壊して、シテ島の裁判所の中にあるサント・シャペルと同じ様式の教会に建て替えようと思ったが、完成は遅れて16世紀のアンリー二世の時代になりました。ステンドグラスといくつかの装飾を別にすれば、この建物は尖塔こそ失ったものの、純粋なゴチック建築です。美しい石造りのバラ窓のあるファサードとポルタイユーはゴチックも後期のフランボヤン様式です。内部の身廊は広く、非常に優雅で、持ち送りの装飾や、大きな窓の並びの下部を横に走るフリーズの装飾は注目に値する。内陣の非常に美しいステンドグラスは珍しいルネッサンス時代のもので、黙示録のいくつかの情景を特別な色彩で描き出しています。北の小聖堂にはアンギャン公の墓があります。

Avenue de Paris

Avenue de Paris  この通りはパリに続いています

植物園 (Parc Floral de Paris)
   1969年に建築家で造園家のD・コランによって設計された30haの庭園。休日には、ピクニックの家族ずれで多いにい賑わいます。なだらかな起状に富んだ園内には、数百種類の花が栽培されていて中にダリア園、あやめ園、薬草園などがあります。

「ミシュラン・グリーンガイドブック パリ」 参考にして

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